発達障害・境界知能の小学生男児を持つ母です。小学校1~2年生頃に息子が不登校傾向に。騙し騙し無理やり通わせていましたが…療育、服薬、関係機関との連携、私の退職…息子を見守ることに専念することで状況が一気に良くなりました。今回はその経緯と振り返りを書き連ねてみます。
幼少期は障害の指摘はあったもののスルー
そもそも、私が息子の障害受容ができたのは、息子が小学校に入ってからと少し遅めでした。「発達障害」という言葉は知っていましたが、息子には無縁のものだと思っていました。
さて、息子の出生から辿りたいと思います。
息子の出産は少々難産気味で12時間ほどかかりましたが、吸引分娩で無事出生。
健康そのもので、一人っ子で家族からの愛を一身に受けながらすくすくと育ちました。
わたしは幼児教育に強い関心があり、30万円で「家庭保育園」という高額教材を購入。七田式のフラッシュカードに熱心に取り組み、毎日絵本を読んで聞かせました。私は幼いころから勉強が好きでしたので、自分の子どもも勉強を好きになれる素質があるはずだと信じて疑いませんでした。(そして今は息子に学力という面では期待していません、良い意味で)
1歳半で保育園に入園。慣らし保育には大変な時間を要しました。ようやく保育園に慣れたかな、という2歳頃、ベテランの園の先生から指摘がありました。
「ずっと園の隅にいて、輪に入らない。少し他の子どもと違う何かある気がする」
それは障害を遠回しに指摘する典型的な表現でした。私はその真意に気付かず、都合の良いように文字通りに解釈し、「個性」として受け流してしまいました。息子は家では元気そのもの。電車が大好きで、その名前もしっかり覚えては指で指して教えてくれます。言葉は少し遅れていますが、検診で問題になるほどではなく、「男の子は言葉が遅いもの」と楽観的に考えていました。
引っ越しに伴い、保育園を転園。その保育園では特に障害の指摘はありませんでした。今思えば、在籍しているのは若い先生たちばかりで、経験も浅く、息子の障害に気づけなかったのだと思います。
小学校入学後、寝てばかりの毎日
小学校に入学してから、息子が授業中によく眠ってしまったり、集団での一斉指示に従えなかったりすることが多くなり、学校の先生や他の子どもたちから指摘を受けることが増えました。そのような状況を見て、私は「甘ったれている、もっと厳しくしなければ」と思い、叱ってばかり。
状況は好転しないまま、小学校1年生の2学期の終わり頃、担任のベテランの先生から指摘がありました。
「成績はバッチリ。算数もよくできていますし、この前も作文がよくできていたので学年通信に載せました。ですが、あまりにも授業中寝ているので心配。病気なのかもしれないので、診てもらったらどうか」
最初は「保育園のお昼寝の習慣が抜けないのかも」と担任の先生も様子を見てくださっていましたが、夏休みを過ぎても授業中の半分は寝ている状況で心配だとのこと。
私も薄々は気付き始めているところでした。授業参観で見た息子の様子が他の子供たちと明らかに異なったからです。息子は教科書やノートを机に出さず、ぼんやりしていることが多く、宿題を忘れたことに気付くとどう対処していいか分からず泣いてしまうのです。他の子供たちは先生の指示に従いテキパキと行動しますが、息子はついていけていない様子です。
息子は辛そうに語ります。「授業で言っている内容が全然わからないの。わからないと眠くなってくる。で、寝てるから、内容がもっとわからない。寝てると先生からもみんなからも怒られるんだよ。また寝てる!寝るな!サボってる!って。つらい。泣いちゃうんだよね。寝たくないんだよ、でね、寝ないように自分で手つねったり、頭叩いたりしてる。でもどうしても寝ちゃうんだよ」
息子の悲痛な訴えと先生からの指摘が後押しとなり、医師の診断を受けることを決意しました。
初めてのWISC、通級も併用
小1の3学期(2月)にWISCを受けた結果は以下のとおり。
- 全検査IQ82
- 言語理解72
- 知覚推理98
- ワーキングメモリー88
- 処理速度81
平均がそれぞれ100である中、息子は言語理解が平均を大きく下回っており、唯一、知覚推理は平均と同等。全般的に特に優れた分野がなく、総じて平均以下です。
境界知能、発達障害(ASD・ADHD)との診断が下りました。
コロナウイルスの影響で学校が休校となり、その後、小学2年生の10月から通級指導教室の利用を開始しました。週に1時間、集団・個別の指導を受けることができ、この貴重な療育の機会をしっかりと活用しました。ありがたいことです。
また、放課後デイサービスの検討も始めましたが、どこも定員オーバーで、待機が1年半から2年という絶望的な状況。
そこで、自費でLITALICOに通い始めます。週に1回、1時間弱で、月額7万円がかかり、半年間で約42万円を自費療育に費やした計算です。当時の私は、どんな手段をも試す覚悟で、費用には目を瞑っていました。
費用に見合うほどの効果はなかったかとは思いますが、LITALICOのペアレントトレーニングも一定程度の功を奏し、私の息子に対する態度は大きく変容しました。具体的には、期待値が下がることで、怒る回数が激減しました。何かできないことが目についても「この子は周りの子より2歳下の子レベルなんだ、できなくても当たり前なんだ」と脳内で唱えることで、あらふしぎ、スッと怒りは過ぎ去ります。
今、振り返ると、親子ともに苦しいときを過ごしました。障害が明らかになる前、息子は毎朝「学校に行きたくない」と泣いていました。ですが、私は仕事に出かけなければなりません。日々、多忙を極め、簡単には休むことができません。私は本当に馬鹿真面目な性格で、仕事をほどほどにして要領よくやり過ごすということができないのです。私は貧しい家庭で育ち、塾にも行けず、小学生の頃から独学で勉強し、給付型奨学金を得ながら大学を卒業し、公務員試験に合格しました。市民のために、粉骨砕身の思いで働いています。それなのに、息子は怠惰で甘ったれて泣きじゃくり、落ちこぼれる様子に毎日いら立ちを感じていました。息子を毎日怒鳴りつけ、無理やり学校へ行かせました。彼がうなだれてトボトボ学校に向かう姿は、今でもはっきりと私の目に焼き付いています。恐ろしいことに、私はそれを「しつけ」と認識していたのです。私が怒鳴ることで息子にとっての家の居心地が悪くなれば、学校に行くようになるかもしれない、と極めて愚かな考えも持っていたと思います。
今思えば、まず私に心の余裕がありませんでした。もっと早く仕事を辞めて、息子に向き合うべきでした。
登校渋りは減少
主治医と相談して、コンサータを服用するようになりました。
息子が一番困っていることは「授業中、寝てしまうこと」。コンサータには覚醒作用があり、これが息子にはしっかり効果がありました。
頭の中が少し静かになるようで、授業の内容も少しはわかるようになったようです。
また、小学校3年生になると担任の先生が変わりました。
新卒として採用され、若くはありましたが、それだけに意欲が十分にあり、なにより発達障害についてもよく勉強していて特別支援教育に対する造詣が深い先生でした。先生は怒ることが滅多にありません。ユーモアを交えつつ、テキパキと授業運営をします。一人ひとりをよく見ていて、息子への個別の声かけもしっかり行ってくれます。息子だけでなく、生徒や保護者からも厚い信頼を受け、人気のある先生でした。
息子はこの先生が好きだったようで、不登校傾向がなくなったのは先生のおかげでもあると考えています。卒業するときは必ずこの先生にお礼するつもりです。
さらに、息子が小学4年生になるころ、私は退職を考え始めます。そのきっかけは息子の「学童に行きたくない」という切実な訴えです。小4になれば、多くの子たちが放課後学童へ行かなくなるものですが、息子も例外ではなく「放課後は家で過ごしたい」と。もともと学童では、他の子と交わることなく、漫画を読んだり、部屋の隅でピョンピョンと跳ね回ったりしているだけでした。おそらく、彼は始めから学童が好きではなかったのでしょう。しかし、放課後に彼を家で一人にすることには、まだ不安がありました。精神的に幼く、寂しがり屋の息子は「家にママがいてほしい」と言います。そして、その頃、私は新しい事業部に配属され、ますます忙しさが増す気配がありました。すぐに、仕事と子育ての両立は無理だと悟りました。
退職してからは、私が家にいるので、息子は放課後に友達を家に招くことができるようになりました。友達が来ない日でも、私がそばにいると息子はリラックスしてゲームをしたりYouTubeを観たりして過ごしています。宿題や課題で困ったときは、一緒に取り組みます。
そして、私も仕事がない分、随分と心に余裕ができました。さらに息子に対する態度は寛容になったように思います。
通級の支援、コンサータの服用、担任の先生の理解、私の行動の変化…
これらの取り組みにより、息子の困り感、登校渋りが明らかに減りました。
振り返ってみて…
小学校6年生になった息子は、元気いっぱいに学校へ通っています。「学校、サボりたいな~!」と冗談を言うことはありますが、以前のように泣いて「学校へ行きたくない…」とは言わなくなりました。
私の場合は退職して、会社経営&フリーランスの道を選び、業務時間を減らし、在宅勤務へ切り替えました。ですが、このブログで「不登校児を持つ母親は全員、在宅勤務するべきだ」と主張する気は毛頭ありません。
不登校に対する向き合い方は当然人によって異なると思います。
不登校であることをチャンスと考えて、エジソンのように家庭教育でその子の長所を伸ばす方法もありますし、
学校に行かせることが絶対に「あるべきゴール」だとも考えていません。
実際、私が退職したのは息子がいつ学校に行かなくなってもいいように準備する、という意味合いもありました。
ただ、私の息子の場合、学校には行きたかったようです。多くの人と関わりたくはある。だから行きたい。だけど、行くとつらい。
私の場合は、私が仕事を変えたこと、療育や通級指導の支援、担任教師の理解、服薬、そして私自身の行動変化、それぞれが上手く作用して、息子が学校へ通うことができるようになったのだと思います。
環境を整えるだけで、子どもの表情はこんなに変わるんですね。身をもって体感しました。
今は中学校の進路に迷い中で、まだまだ悩みは尽きません……。
ですが、息子の気持ちを大事にしながら、「手は放して目は離さず」の姿勢で向き合っていきたいと思います。